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海女と真珠、鳥羽の海に生きる人々を訪ねて

かつて真珠養殖を支えた海女の仕事を伝える潜水実演(ミキモト真珠島)

伊勢湾の潮流と黒潮の支流が交わり、リアス式海岸が続く鳥羽。
古くから豊かな海の幸に恵まれ、今も多くの海女が暮らす地域として知られている。
この海で育まれてきた海女の文化と、鳥羽で発展した真珠養殖。
鳥羽の海と人との関係をたどる旅へ。

海女歴54年、千津子さんの一日は夜明け前に始まる

中村千津子さんは、海女歴54年の大ベテラン。
海を見下ろす絶景の地に佇む「海女小屋 おぜごさん」。海とともに生きる日
現役の海女さんたちが囲炉裏で炭火焼にするのは、新鮮な魚介類。

「いらっしゃい。遠くから来てくださいましたねえ」。
海を眼下に望む「海女小屋 おぜごさん」。笑顔で客を迎えてくれたのは、現役の海女、中村千津子さんだ。
海女小屋は、この地域で「かまど」と呼ばれ、漁を終えた海女たちが休憩し、冷えた体を温める場所。海女文化が今も息づく鳥羽市相差町(おうさつちょう)では、そんなかまどで、現役の海女が炭火で焼く魚介を味わうことができる。
千津子さんの母も、夫の母も海女だった。自身も子どもの頃から海で遊び、小学5年生の頃にはトコブシを採っていたという。誰かに勧められたわけでもなく、自然にこの仕事に就き、それから54年になる。
千津子さんの一日は午前2時半から始まる。定置網を上げ、魚を仕分け、午前のうちに、仲間と乗合船で海へ。約90分の漁を終えると、かまどで火に当たり、仲間とおしゃべりを楽しみながら冷えた体を温める。
海女の多くは、旅館や家業など別の仕事も掛け持ちしている。千津子さんも、漁のあとはこうして海女小屋で客を迎える。小柄な体で、どこにそんなエネルギーがあるのかと思うほど、実によく動く。
この日は台風の接近を前に波が高く、組合の決まりで朝の漁は休み。
「今日は潜らなくていいから、ちょっと気が楽。こんな日も好きですよ」と千津子さんが笑う。「たくさん採れるなら潜りたいけど、今はそうでもないから」と。
漁に出るかどうかは、個人の判断だけでは決められない。海女漁には、仲間同士で守るルールがある。
以前、84歳まで現役だった海女が引退したのも、年齢を重ね、万が一にも事故を起こせば、漁協組合に属する仲間たちまで漁を休まなければならなくなるからだという。千津子さん自身も、仲間に迷惑をかけないよう、体調管理には気を配っている。
ひとしきり海の幸を味わい、かまどを出る。目の前に広がる相差の海は、千津子さんたちにとって、暮らしを支えてきた場所でもある。海女という仕事は、この土地の日常そのものなのだと、あらためて思った。

鳥羽に海女が根差した理由

「海の博物館」は、海にまつわる約6万点の民俗資料を所蔵。そのうち6,879点が国指定重要有形民俗文化財。
航海安全や大漁を祈願する船霊(ふなだま)さん。船には必ず、祀るスペースがあったという。
一筆書きで描いて元の場所に戻るため、「潜っても必ず無事に浮上できる」という意味が込められているセーマン(星型)、出入り口が分からず「魔物が入り込む隙を与えない」とされているドーマン(格子目)。

なぜ、この地には、これほど多くの海女がいるのだろう。その背景を知るために訪ねたのが、「鳥羽市立海の博物館」だ。
リアス式海岸が続き、暖流の影響も受ける鳥羽は、古くから豊かな海の恵みに支えられてきた。ダイナミックな木造アーチ天井の下には、海女がかつて着用していた磯着や道具、貴重な昔の写真がずらり。眺めているだけでも、この土地がどれほど海と近く生きてきたかが伝わってくる。
展示によると、2022年に三重県で確認された海女は514人。今も全国有数の海女の土地であることがわかる。その背景には、鳥羽・志摩一帯が、古くから伊勢神宮に海産物を納める御食国(みけつくに)として海と深く結びついてきた歴史がある。
海女は、夏はアワビ、冬はナマコ、春には海藻と、その季節ごとの海の恵みを素潜りで採る。男性の素潜り漁師である海士(あま)もいるが、圧倒的に多いのは女性だ。女性は皮下脂肪が厚く、冷たい海での潜水に適しているからともいわれるが、理由はそれだけではない。鳥羽では、男性たちが遠洋漁業へ出る一方、女性たちは家の近くの海に潜り、海産物を採って家計を支えてきたのだ。
展示をたどっていくと、海女は単なる素潜りの名手ではなく、鳥羽の海と暮らしを支えてきた存在だったことが見えてくる。なかでも目を引いたのが、海女たちが身につけてきた二つの文様、星形の「セーマン」と格子目の「ドーマン」だ。いわばお守りのようなもので、海から無事に戻れるようにとの願いが込められている。命ひとつで海へ潜る仕事だからこそ、こうした祈りもまた、海女の暮らしとともに受け継がれてきたのだろう。

海女と真珠。二つの文化をつなぐ海

「ミキモト真珠島」では、昔ながらの白い磯着をまとった海女による潜水実演を見ることができる。
アコヤ貝に真珠の核を埋め込むのは、繊細な手術のような作業。当初は歯科医が使用する医療用の器具が改良して使われていた。
職人の目と手作業により、中心の珠からバランスを見極めながら一本のネックレスが組み上げられていく。

海女たちの仕事は、海産物を採ることだけではなかった。この地で発展した真珠養殖も、彼女たちの力に支えられていた。その歴史を教えてくれるのが、鳥羽駅からほど近く、鳥羽湾に浮かぶ小島にある「ミキモト真珠島」だ。
橋を渡って島に上陸すると、ちょうど潜水実演の時間。昔ながらの白い磯着に身を包んだ海女が海面に浮かび上がり、大きく息を吸い込む音が響く。
ここは、御木本幸吉が1893年に世界で初めて、アコヤ貝を使った真珠養殖に成功した場所。この島で真珠養殖への道が開かれ、日本の真珠産業は大きく発展していった。
真珠養殖を支えたのが、海女たちだった。海底に潜ってアコヤ貝を採取し、核入れを終えた貝を再び海へ戻す。こうした作業には、海を知る彼女たちの経験と潜水技術が生かされた。
現在では、現場で海女さんが作業をすることはないが、真珠は、海の中で放っておけば育つわけではない。アコヤ貝に付着物がつくと殻を開閉しにくくなり、餌を十分に取り込めなくなるため、機械や人の手で掃除する必要があるという。
こうして人の目と手で貝を世話する一方、いまではアコヤ貝そのものにセンサーを付ける技術も登場している。貝の状態を陸上から把握でき、赤潮や貧酸素など、海の異変を早く捉えるために活用されているそうだ。
真珠養殖で生まれるものを活用する取り組みも進んでいる。たとえば、真珠を育て終えたアコヤ貝を食品として利用したり、貝殻の付着生物や貝肉の残渣物を堆肥にしたりと、海から得たものをできるだけ無駄なく使っている。
白い磯着で海へ潜った海女から、現在の養殖へ。時代は変わっても、鳥羽の海で人が貝を育て、海の変化に向き合う営みは続いている。

変わる海。それでも海女は潜る

神明神社に向かう道には、海藻を売る店が点在する。店番をする海女さんたちとの会話が楽しい。
女性の願いを一つだけ叶えてくれると言い伝えられ、多くの参拝客が訪れる相差神明神社の「石神さん」。
道沿いには、海女たちが安全のために身に着ける星形の「セーマン」(桔梗印)と格子状の「ドーマン」を刻んだ石が。

「たくさんとれれば潜りたいけど、今はあんまりとれないから」。
海女小屋で千津子さんがぽつりと話したように、海をとりまく環境も変わっている。
そのひとつが、7年にもわたって続いた「黒潮の大蛇行」だ。アワビの餌となる海藻が失われる磯焼けが進み、アワビも減少。かつてのように、海に入れば豊富にアワビが見つかる時代ではなくなった。多くの海女がほかの仕事と掛け持ちし、相差では海女小屋で客を迎えることも、大切な収入源になっている。
けれど、海はまた少しずつ変わり始めている。「相差海女文化資料館」で話を聞くと、海女たちからは「水温が下がってきた」「ワカメの赤ちゃんが育っている」といった声も聞かれるという。さらに、海藻が茂る藻場を取り戻そうという活動も進められている。
資料館のほど近くには、「相差神明神社」、通称「石神さん」がある。神社へ向かう道では、ワカメやひじきを売る海女たちに出会った。
「これ、うちがとったんさー」。
なんとも元気な声に誘われ、旅の土産をひとつ、ふたつ。
この神社は古くから、海女たちが漁の安全と豊漁を願い、祈りを捧げてきた。それが今では、「女性の願いをひとつ叶えてくれる」と全国から多くの参拝者が訪れる場所になっている。
技術が進み、漁の形が変わっても、海へ潜り、無事に帰ることを願う気持ちは変わらない。石神さんの前で、そっと手を合わせる。潮の香りを含んだ風が、鳥居の向こうから吹き抜けていった。

2026.9.18

・写真はイメージを含みます。また、撮影当時の情報を基に記事にしており、現在の景観や記事内容と異なる場合がございます。予めご了承ください。